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神の使いか、不吉の兆しか?本当の「ザシキワラシ」の姿に迫る!

──遠野の風景に息づく、不思議でリアルな存在。

神のように福をもたらし、時にその不在が不吉とされる存在——ザシキワラシ。
その正体は、妖怪か、守り神か、それとも……?

岩手県遠野市には、そんな座敷わらしの気配が、今でも感じられると言います。
この記事では、物語の世界を飛び越え、現実の風景の中に現れる「不思議」の正体を追いかけてみます。

家に棲む神?霊?——「ザシキワラシ」とは何者か

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

「ザシキワラシ」は、東北地方を中心に広がる民間伝承の中で、古くから語り継がれてきた存在です。
主に岩手・青森・秋田などに多くの伝承が残されており、「家の中に棲む小さな子どもの姿をした霊的存在」として知られています。

その特徴は、家の座敷などに現れること、そして姿を見た者に幸運をもたらすと信じられていること。
ザシキワラシのいるとされる家が繁栄し、いなくなると家運が傾く——そんな「福の神」のような存在として語られることが多い一方で、夜中に足音がしたり、子どもの笑い声が聞こえたりと、どこか「怪談」のような側面も持ち合わせています。

また、伝承の中には「見てしまうと不幸が訪れる」という逆のパターンもあり、必ずしも一貫して「良いもの」とはされていません。
そのため、ザシキワラシは「神」と「妖(あやかし)」のあいだにある存在——つまり「人智を超えたなにか」として語られてきたのです。

近年では、「かわいい存在」「開運の象徴」として紹介されることも多く、ザシキワラシにちなんだ宿や、願いを込めて訪れる人の姿も全国で見られます。

ですが、もともとのザシキワラシとはもっと暮らしに近く、もっと静かで、そしてどこか、言葉にできないような気配をまとった存在だったのではないか——
そんなふうにも思えてくるのです。

 

山口孫左衛門の屋敷跡——物語が「現実」に重なる場所

孫左衛門の屋敷跡

ザシキワラシといえば、全国的には「家に福をもたらす小さな霊的な存在」として知られていますが、遠野の人々は、その存在をもっと静かに、もっと自然なものとして受け止めています。

それは、恐ろしいものとして語られるような妖怪や霊的な存在ではありません。
山や水、家の奥や座敷にひっそりと佇む存在——
言うなれば、この地の暮らしと共にある「精霊」のようなものなのです。

それもそのはず、遠野には古くから「家の神」を大切にする信仰が息づいています。
土間や屋根裏に祀られる「オクナイサマ」や、蚕の神として知られ、家の守り神ともされる「オシラサマ」そして座敷に現れる「ザシキワラシ」——
家という空間の中に「目に見えない存在がともに暮らしている」という感覚が、今もこの遠野には根付いているのです。

だからこそ、ザシキワラシの存在がリアルに信じられ、そして『遠野物語』に記されたような不思議な話とも、自然に結びついていったのかもしれません。

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

『遠野物語』初版

『遠野物語』のなかで、第17話から21話に登場する、土淵村の旧家・山口孫左衛門の屋敷にまつわる逸話は、その象徴のようなものです。

──かつてその家には、童女の姿をした二柱の「神」が棲んでいたと語り継がれています。
家は代々栄え、村でも一目置かれる存在だったといいます。

ある日、ひとりの村人が山道で見知らぬふたりの娘に出会います。
「どこから来たのか」と問うと、娘たちはこう答えました。
「山口の孫左衛門のところから来ました」と。

その直後、山口家では大きな不幸が訪れます。
毒キノコを口にした家人や召使いたちが次々と命を落とし、栄華を誇った家は一夜にして没落してしまいました。

人々は囁きました。
あの娘たちは、屋敷に棲んでいたザシキワラシだったのではないか。
家の「神」が去ったことで、運気もまた離れてしまったのだ——と。

つまり遠野の座敷わらしは、その姿を見かけた時こそ、不吉の前兆と思われます。

けれど、その解釈が本当に正しかったのかは、誰にもわかりません。

語り継ぎの中で「神」とされた存在と、たまたま屋敷に身を寄せていた者が何かの理由で外に現れ、それを見た村人が「座敷わらしだった」と語っただけだったのかもしれない。実はただの子どもだった可能性もあるのではないか——。

もしそうならば、この話は精霊の伝承ではなく、人と人の関係に潜む恐れが生んだ「人怖」の物語だった可能性すらあるのです。

真実は、今となってはもう誰にもわかりません。ですが、山口家の屋敷跡は今も遠野の町に静かに残されており、遠野市立博物館には、その家に残されていた仏像などが展示されています。

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

博物館の展示

座敷わらしとは何か?

神なのか、人なのか、あるいはそのどちらでもない存在なのか。遠野という土地は、そんな問いに、明確な答えを与えないまま、静かに、優しく、今もその存在を受け入れているのです。

 

神域・早池峯神社で感じた「ザシキワラシの気配」

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

早池峯神社

遠野には、ザシキワラシの存在を今に感じることができる、いくつもの場所があります。
そのひとつが、早池峯(はやちね)神社。
『遠野物語』にも登場する「三山信仰」のひとつとして古くから人々の信仰を集め、霊峰・早池峰山のふもとに静かに佇むこの神社は、訪れる人の心を静かに整えるような、神さびた厳かで神秘的な空間です。

この早池峯神社で、静かに続けられているのが「ざしきわらし祈願祭」。
はじまりは、昭和50年代の終わりに起こったある出来事に遡ります。

早池峯神社の長い歴史の中で、その当時の神社は荒れていた時期と宮司は語ります。

そんな時期にある人物が、早池峯神社を訪れた際のこと。
事業を営んでいたその人物が、神社を参拝した帰り道、違和感があったと言います。

その後、その人物の事業は不思議なほどに繁盛したため「ザシキワラシが車に乗って一緒に帰ってきてしまった」として、大変感謝し再び参拝に訪れたとのことです。

この出来事を境に、地元の方々も神社の復興に協力するようになり、昭和61年から62年にかけて大規模な改修工事が行われ、その後昭和63年から「ざしきわらし祈願祭」がはじまり現在に至ります。

その性格は少し特別で、神社から分霊されたザシキワラシを祀っている人たちが年に一度、そのザシキワラシを連れて里帰りの祈願に訪れるお祭り。

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

早池峯神社の座敷わらし人形

こうして、暮らしの中で大切にされてきた「見えない存在」が、年に一度、神社に集まり、再びそれぞれの家庭へと戻っていく——。

今では毎年4月29日に、静かに祈りを捧げる人々が集うようになりました。

観光的な賑わいとは異なり、この祭りには、声高に語られることのない“信仰の空気”が流れています。

ザシキワラシという存在が、ただ「信じる/信じない」では片付けられないものとして、静かに、しかし確かに心に根づいていることを感じさせるひとときです。

そんな祈りの営みを知ると、早池峯神社という場所が、単に「開運」を求めて訪れる場ではなく、静かに信仰と向き合うための神聖な空間であることが、自然と伝わってくるように思えます。

そんな場所だからこそ、ひとつの不思議な出来事が記録されました。

この記事の執筆中、偶然にも「不思議な体験を記録した動画がある」と、ある方からご連絡をいただきました(以下、投稿者と表記)。

その方は遠野市内にお住まいですが、これまで一度も早池峯神社を訪れたことがなかったそうです。ある日、お嬢さんと愛犬との散歩の途中で、ふと立ち寄ってみることにしたといいます。

訪れたのは、早池峯神社の拝殿にある広間。

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

本殿に参拝したあと、お嬢さんが拝殿広間の様子をスマートフォンで動画撮影していたところ、不思議な現象が起こりました。

そこには、催しなどで使われたのであろうカラフルなビニール製のボールが、静かに置かれていました。人の気配もなく、あたりはしんとした午後のひととき。

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

ところがそのボールが、突如として動き出したのです。
まるで、誰かがそっと触れたかのように——。

お嬢さんは周囲の撮影中でその瞬間には気づかなかったそうですが、投稿者に声をかけられボールの撮影を始めました。

🎥 不思議な“その瞬間”を捉えた動画はこちら

ボールはひとりでに動き出しました。まるで“何か”が遊んでいるかのように——。
投稿者とお嬢さん、そして愛犬までもがその様子に引き込まれ、しばし夢中になったとのことです。

それが「ザシキワラシ」だったのかはわかりません。
しかし、神聖な空気が漂うこの神社には、何かが起こっても不思議ではない——そんな雰囲気が、たしかにあります。

——ほんの一瞬、空間の気配が変わったような気がした。
音の響きが、わずかに違って聞こえたように思えた。
誰もいないはずなのに、背中で“何か”を感じたような——

もしかしたらザシキワラシとは、そうした曖昧で、けれど確かに「そこにいるような存在」なのかもしれません。

それをありがたく感じるか、少し怖く感じるかは人それぞれ。
けれど、この遠野では、そうした“見えないもの”を、今もなお静かに受け入れながら暮らしてきました。

 

遠野でザシキワラシに出会える場所

遠野には、ザシキワラシの気配にふれられる場所がいくつかあります。

山口孫左衛門の屋敷跡

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

山口孫左衛門の屋敷跡にある井戸の跡

たとえば、山口孫左衛門の屋敷跡。

『遠野物語』にも記されたこの場所は、今も実際に訪れることができます。足を運んでみると、語り継がれてきた物語が、どこか身近なものとして感じられることでしょう。

 

遠野市立博物館

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

この物語にまつわる資料は、遠野市立博物館でもご覧になれます。山口家に残されていた仏像などが展示されており、遠野に息づくザシキワラシの伝承に、現実の重みを添えるような存在感が感じられます。

⇒詳しくはこちら|https://tonojikan.jp/tourism/tono-municipal-museum/

 

伝承園

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

さらに、伝承園の「菊池家曲り家」も、その気配にふれられる場所のひとつです。

国の重要文化財に指定された江戸時代中期の南部曲り家には、当時の暮らしや信仰が今も静かに息づいています。展示や語り部による昔話を通じて、かつて人々が「見えないもの」と共に暮らしていた空気に、そっとふれることができるかもしれません。

⇒詳しくはこちら|https://tonojikan.jp/tourism/denshoen/

 

遠野ふるさと村

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

遠野ふるさと村では、かつての山里の暮らしを体験することができます。

田畑や水路が広がり、囲炉裏に火が入る曲り家には、昔ながらの農村の時間が今も流れています。季節の行事や昔の手仕事にふれる中で、ザシキワラシがそっと隣にいるような感覚を味わえることも。実際に、「ザシキワラシに会った気がする」と話す観光客もいるとか、いないとか——。

⇒詳しくはこちら|https://tonojikan.jp/tourism/tono-furusatomura/

 

早池峯神社

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

そしてもちろん、先ほどご紹介した早池峯神社も、ザシキワラシと深く結びついた場所のひとつです。

人々の祈りが静かに重ねられてきたこの神域には、今もそっと、見えない誰かが語りかけてくるような空気が流れています。

⇒詳しくはこちらhttps://tonojikan.jp/tourism/hayachine-shrine/

 

とおの物語の館

語り部の昔話

そしてもう一つ、遠野の語りの文化にふれるなら、「とおの物語の館」で行われる語り部の昔話も外せません。

ここでは、昔ながらの語り部による“語り”を遠野の言葉で聞くことができます。ここで語り部にザシキワラシの話をリクエストしてみてはいかがでしょう?

⇒詳しくはこちら|https://tonojikan.jp/tourism/tono-folktale-museum/

 

この他にも遠野には、地元の人にだけ知られている、そんな場所が他にもあります。

言い伝えのある古い家や、名前のない祠、誰かが“見た”という静かな一角——

地図には載らなくても、ザシキワラシの物語は、今もこの町に静かに息づいています。

遠野にあるのは、「確かに出会える場所」ではなく、静かにそっと感じられる場所。

言葉にならない感覚が、ゆっくりと心にしみてくる——

この町には、そんな出会い方が、よく似合っています。

 

神の使いか、不吉の兆しか?——その答えを探しに、遠野へ

神の使いか、不吉の兆しか?本当の「座敷わらし」の姿に迫る!

ザシキワラシは、神の使いなのか。不吉の兆しを司る妖なのか。それとも——。

遠野をめぐっても、きっと答えはわからないままかもしれません。けれど、わからないからこそ、人は語り、感じ、静かに手を合わせてきたのだと思います。

ザシキワラシが棲むとされる家では、人の暮らしが豊かになると言われます。けれど反対に、姿を消したときに不幸が訪れたという話も、また確かに語り継がれています。その存在は、神のようでもあり、人の心の奥にある畏れや願いが形になったようでもあります。

だからこそ、遠野では「こうだ」と言い切る人は、あまりいません。むしろ人々は、「そうかもしれないね」「いたらいいね」と、ほんの少し微笑みながら、そっと語りをつないでいくのです。

神か、悪魔か。

その答えを探しに行くのではなく、答えのないものに、そっと寄り添う旅。遠野とは、そんな場所なのかもしれません。もしかしたらあなたは、気づかぬうちにザシキワラシと一緒に旅をしているのかも…。

その気配にふれるために——どうぞ、遠野へ。

それは迷信ではなく、想像でもない。

ぜひ、あなたの旅の中でたしかめてみてください。